価値,価格の混濁が気になるわけ

 3週間くらい更新が途絶えた。
 この間,2つの科目について,まとめシートと称する小テストを3つ実施し,その採点に追われていたが,あと1回講義を残す段階で成績分布の状況が明らかになり,成績評価についてもおおよその目処が立った。
 他方,個々での投稿を振り返ってみると,未定稿ながら細かな論点に立ち入りすぎた感があるので,4,5の投稿を下書きに戻した(非公開にした)。
 また,先月始めのこの投稿は,ある一面について長々と述べ不十分に見えたので書き改めることにした。

  今秋,名古屋大学で開かれる学会,第73回全国大会で「価値タームと価格ターム」と題して報告を行う。

 このタイトルは,現在は経済原論,資本主義経済の一般理論において,価値視点の叙述と価格視点の叙述が混濁している,という問題関心に立っている。

 なぜ両視点の混濁に拘るのか。
 簡単に言えば,

  1. 価値論が混入した価格論,価格を基準に行動する諸資本の競争像が非現実的かつ平板になる。
    価値は競争当事者には見えない。にもかかわらず,価値に規定された利潤概念ないし利潤率概念に即して諸資本が競争する,というのは非現実的であるし,価値に係わらない行動を排除しているという意味では競争モデルとして単調・平板であろう。
    また,価値論を奉じない新古典派には理解不能であり,彼らとの対峙も困難になる。
  2. 価格論が混入した価値論は,その本来解明すべきことが十分明らかにされない。
    資本の姿態変換に即した「価値増殖」の説明が,労使間の労働量交換による「量の増大」の説明で済まされるなどはその一例である。


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